49.南北朝動乱(どうらん)の初期には・・・

室町時代の初期(しょき)、南北朝動乱(どうらん)というものが起きているんだ。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が建武(けんむ)の新政(しんせい)(=後醍醐天皇が鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)を倒(たお)して、武士(ぶし)ではなく自分自身で政治(せいじ)行うように改革(かいかく)したこと)を行った時には味方で、重要(じゅうよう)な役職(やくしょく)につけていた足利尊氏(あしかが たかうじ)と対立してしまったんだ。

後醍醐天皇は吉野(よしの)(=現在(げんざい)の奈良(なら)県南部)に移(うつ)って朝廷(ちょうてい)(=天皇(てんのう)や貴族(きぞく)が政治を行うところ)を開いたんだ(=南朝)。

一方の足利尊氏は京都で光明天皇(こうみょうてんのう)を立てた朝廷を作ったんだ(=北朝)。

つまり、二つの朝廷が存在(そんざい)してしまったんだ。
この時代のことを南北朝時代というんだ。

尊氏は、もともとは鎌倉幕府の悪政(あくせい)(=武士(ぶし)や民(たみ)のためにならない悪い政治)を倒すために後醍醐天皇に協力したのだけれど、実際(じっさい)に建武の新政がはじまると、もっと悪い状態(じょうたい)だったから、それを正そうとした戦(たたか)いを始め、50年も続いたんだ。

南北朝動乱(どうらん)は、南北朝の争乱(そうらん)、南北朝の内乱(ないらん)とも言うよ。

この初期には、周(まわ)りの多くの武士たちには、後醍醐天皇と足利尊氏の対立ではなく、新田義貞(にった よしさだ)vs足利尊氏の争(あらそ)いであると思われていたようなんだ。

当時の武士(ぶし)たちが書いた文書に、新田と足利の紋所(もんところ)の旗(はた)を掲(あ)げて戦(たたか)ったという記録が見つかったからなんだよ。