33.比企能員(ひきよしかずのへん)の変、伊賀氏の変(いがしのへん)はいずれも北条(ほうじょう)氏の捏造(ねつぞう)?

歴史書(れきししょ)『吾妻鏡(あずまかがみ)』によると、鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)では、いろいろな事件(じけん)がおきているよ。

2代将軍(しょうぐん)源頼家(みなもとのよりいえ)の跡継(あとつ)ぎ問題が起きた時には、子どもの一幡(いちまん)の母・若狭局(わかさのつぼね)の実家・比企氏(ひきし)と、祖母(そぼ)方の北条氏(ほうじょうし)が対立して、比企能員の変(ひきよしかずのへん)が起きたとされてるんだ。

また、執権(しっけん)という、将軍を助ける最高(さいこう)権力者(けんりょくしゃ)の座(ざ)を争(あらそ)う事件(じけん)も起きているよ。
第2代の執権・北条義時(ほうじょう よしとき)が亡(な)くなった時、義時の後妻(ごさい)・伊賀(いが)の方(かた)に味方する人を執権にさせようとしたけど失敗(しっぱい)。
伊賀の方も、関(かか)わった一族の人も辺境(へんきょう)や島へ送られてしまったんだ。
でも変(か)わって第3代執権になった北条泰時(ほうじょう やすとき)の温情(おんじょう)で、その後、復帰(ふっき)をが許(ゆる)されたんだ。これが伊賀氏の変(いがしのへん)。

ところが、『吾妻鏡』以外(いがい)の資料(しりょう)によると、それは伊賀の方を潰(つぶ)すために仕掛(か)けたでっち上げという説(せつ)や、陰謀(いんぼう)があったかはともかくとして冤罪(えんざい)だった可能性(かのうせい)が高いとする説もあるんだよ。

どちらも、北条氏の権力拡大(かくだい)のための捏造(ねつぞう)された政変(せいへん)だったということなんだ。