30.大坂夏の陣(じん)に関(かか)わる記録(きろく)

大坂夏の陣(じん)を知っているかな?

徳川家康(とくがわ いえやす)とその息子の徳川秀忠(とくがわ ひでただ)を大将(たいしょう)とした江戸(えど)幕府(ばくふ)方と、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の息子・豊臣秀頼(とよとみ ひでより)を大将とした豊臣方が大坂(今の大阪(おおさか)のこと)付近(ふきん)で激突(げきとつ)した戦(たたか)いだ。
江戸幕府方、約(やく)16万5千人に対して、豊臣方は約5万5千人が戦ったんだ。

諸説(しょせつ)の一つとして、「このときのキーマンは大野治長(おおの はるなが)」という話があるんだ。

大坂夏の陣の後も生き延(の)びた大坂方の武士(ぶし)の古文書や古記録(きろく)類(るい)によると、治長は最初(さいしょ)は城(しろ)を守る役目を、その後は交渉(こうしょう)役をしていたんだ。

毛利勝永(もうり かつなが)と真田信繁(さなだ のぶしげ)(=幸村)の大活躍(かつやく)で大坂方は勝利(しょうり)目前だったんだ。
でも、大将の秀頼はずっとお城にこもっていたから、「戦場(せんじょう)に出てくる」ように進言するために治長はお城に戻(もど)ったんだ。
でも、その時、治長は秀頼の馬印(うまじるし)(=戦場(せんじょう)で武将(ぶしょう)が自分の場所を示(しめ)すために馬や槍(やり)の先につけた印)を持ったまま、部隊(ぶたい)全体で大坂城に戻ろうとしたから、豊臣軍(ぐん)は退却(たいきゃく=負けて自陣(じじん)に帰ること)とかんちがいをし、動揺(どうよう)や落胆(らくたん)がはしり、それが徳川軍の反撃(はんげき)のチャンスを作ってしまったんだ。

だからここが転換(てんかん)点だったんだ、という記録(きろく)なんだよ。

その後、治長らは秀頼や母・淀殿(よどどの)とともに自害(じがい)。
享年(きょうねん)47。秀頼は23歳(さい)だったんだ。

秀頼の幼(おさな)い息子(むすこ)も殺害(さつがい)されて、豊臣の家の終わりなんだ。
事実上の天下平定、江戸時代の始まりだ。