6.北条時益(ほうじょう ときます)は二度死んだ。
鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)の終わりの頃(ころ)、京都で、六波羅探題(ろくはらたんだい)南方(みなみかた)という役職(やくしょく)に就(つ)いていた北条時益(ほうじょう ときます)。
『太平記(たいへいき)』によると、北条時益は、光厳天皇(こうごんてんのう)を連れて、関東(かんとう)に向かう途中(とちゅう)で、流れ矢(や)にあたって死んだと記(しる)されているんだ。
だけど、その後見つかった古文書によると、各地(かくち)で北条の残党(ざんとう)が暴動(ぼうどう)を起こして、鎮圧(ちんあつ)された時、その中に時益もいて、討死(うちじに)していたことが分かったんだ。